『太一〜UFOに乗った少年』Blog

宝生明のファンタジー「太一〜UFOに乗った少年」と現実

乗り越えるべき機会

僕たちはひとつの「乗り越えるべき機会」を与えられた。
それは、善と悪の二元的物語からの離脱という機会。
僕たちは永遠に「善と悪」のパラダイムから抜け出ることはできないように教え込まれてきた。
いまこそそのパラダイムから抜けるとき。
考えてほしい、僕たちの歴史には常に善と悪があり、その戦いに血塗られてきた。
その永遠の連鎖からは抜けられないと教えられてきた。
そうだろうか?
そこから抜け出るヴィジョンがなかっただけではないだろうか?
いま僕たちはあらゆる存在を許し、あらゆる存在と共に生きるべきときが来た。
何かの存在を悪くいい、何かの存在を良いものとして見るだけではなく、僕たちにとってすべてが必要で、尊重すべきものと考える可能性をいま持ちつつある。

確かに、コロナウィルスは人類の存続にとって「悪いもの」としか見えないかもしれない。しかし、第二次世界大戦という戦火のおかげで日本は数十年間の平和を得ることができた。いろんな意見があるのは知っている。しかし、平和を得る機会として第二次世界大戦を見たとしたら、それはいいものだったかもしれない。そして、これを受け入れるためには、視点の転換が必要だ。僕たちは第二次世界大戦の「犠牲者である」という視点にしがみついていると、「平和を得る機会としての第二次世界大戦」という見方は得られないだろう。そして、ここからが難しいのだが、だからといって「第二次世界大戦はいいもの」で「悪いものではない」と、善悪を逆転させるものの見方が正しいと言いたい訳ではないことである。

ある見方をすれば「よいもの」と「悪いもの」が、別の見方をすれば「悪いもの」と「よいもの」になることがあることを自分が受け入れることである。しかも、この受け入れはよく考えてすべきで、「理解できない」という人は無理にそれをすべきではない。

このことが受け入れられる人と、受け入れられない人がいると思う。いまはそれでいい。受け入れられる人が受け入れ、受け入れられない人は受け入れなければいい。ただ、受け入れられない人は、「どうしたらその考え方を理解できるのか?」と考えてみてほしい。

なぜこのようなことを書くのかというと、もしこのことが受け入れられない人がたくさんいた場合、きっとコロナウィルス絶滅のために大きな犠牲を払うことを強いるようになるだろう。

いままで僕たちはどんな細菌も殺菌することに力をそそできた。上の話が理解できる人は「細菌を無闇矢鱈と殺菌するのは果たしてどうか?」と思っているはず。「良い細菌は残し、悪い細菌は殺す」ということがどういうことなのか、よく考える必要がある。同様に、「良い人は生かし、悪い人は殺す」ということや、「益獣は生かし、害獣は殺す」ということについても。

宝生明 • 2020年3月30日


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